金融教育は必要であると社会で認識されているが、学校に期待していいものなのだろうか。多くの親が子どもに期待していることと、親としての役割に悩むポイントについて今回は触れてみたい。

知らないことは教えられない

親としての威厳を保つためには、一度は自分で学んだ方がいいし、自分で理解できていないことを子どもに教えようとしても無駄である、という局面は多い。知らないことは教えられないわけである。

でも、子は親を見て育つから、親が知らなくてそれを見た子が真似れば、やはり子どももずっと知らない状態でいることも少なからずある。親子ガチャが当たったとか、反面教師になる、というケースもあるだろうが、偶然の産物に頼るべきではない。ただ、改まって親として何を学ぶべきか、と考えてもその先の行動が億劫になる人は多そうだ。

見ていないことは知らない

言葉を覚えるのはなぜか。周りの人が話しているからである。挨拶をするのはなぜか。周りの人がしているからであろう。過ごしたこともない土地での習慣を実践する人は基本的にはいない。

金融リテラシーがない、という言い方は個人的には好きではない。まるで知っていることが当たり前のように聞こえるからである。もちろん知っていればもっと良かったと思うことはあるかもしれないが、その人が生きてきた過程に必要がなかっただけであり、必要が出てきたときに学べばいい。

ただ、きっかけがなければその必要性に気づくこともない。金融教育はそのツールの存在を知らせる役割はある。

子どもは教えに忠実である

大人は聞く耳がたくさんあるように見えて、聞いたことを何も考えずに実践したり、試行錯誤したりすることは少ない。ある意味で分別がある。

一方、子どもは基本的には教えたことに対して忠実に取り組む傾向がある。だからこそ、親から何を教わるかは子どもの経験やその幅に対して影響が大いにある。大人になってからも親から教わったお金のルールを忠実に守っている人はいる。

子どもから教わることもある

大人になると、理屈だとかプライドだとか経験だとかの様々なものが意思決定の邪魔をすることはある。また、人間は将来のことを考え、不安に思うと同時に、過去のことを考え、後悔するスキルを持っている。知らないはすなわち無知ではあるけれども、誰であっても初めては存在するのであり、そこから経験が積み重なっていく。

学びのスピードは人によって異なる。最初の方の感覚を思い出すのは難しく、だから子どもを見ていると今の自分では取らない選択をしたりすることを新鮮に思うこともあるかもしれない。

PCを使ったり、あるいはスマホを使ったりすることだって抵抗のある世代はいる。案外子どもから教えてもらったので使うようになった、という人もいるだろう。

唯一の正解があるとは限らない

学校教育の欠点というと怒られるかもしれないが、学校教育では相対評価をしなければならないから、点数ないし評定が存在し、そのための正解が存在する。

でも、多くの人は社会に出る頃には、世の中には正解がないものの方が多いことに気がつく、あるいは正解が複数あるものが多いことに気がつく。

金融教育も陥ってはいけないのは、唯一の正解があると期待し、あるいは錯覚することであると思う。もちろん、教育というからには誰もが身につけておくべき素養、という観点はある。ただそれは個性を否定するものではない。金融知識をどのように使うかはその人自身に委ねられるべきであり、それゆえに複数の正解があって構わない。

家庭でできる金融教育

金融教育というと難しげに聞こえるかもしれないが、根本的には言葉を学ぶのと過程は何も変わらない。

ただ、お金の話を子どもには聞かせたくない、という親がそれなりにいるのは事実である。でも、本当に子どもにいつか独り立ちをして欲しいと思うのならば、どこかの時点でお金の話に参加させることも考えて良いと思う。

教科書で学べる知識ではなく、自分自身の成長を支えている実践経験なのであるから。場面場面で子どもを置いてけぼりにしていないか、見直してみることから始めてみてはいかがだろうか。

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