2022年に入ってから、全く新しい金融市場のサイクルに入ったのではないかという話、そしてそれは多くの投資家にとっても好ましくないという話はよく聞く。
一方で、過去には戦争の時代もあったし、オイルショックの時代もあった、金融危機もあったから、今回も特別ではないという人もいる。
金融市場が根本的に変わっているという可能性についてどのように向き合うべきなのだろうか。
目次
事実としての変化
金融市場が変わったかどうかという話よりも、事実ベースで変化した社会の様々な事象が存在することは疑いがなかろう。
グローバリズムを見直すタイミングに来ていること、政府の支出が非常に大きくなったこと、金利が高くなってきていること、インフレーションが高止まりしていること、などが挙げられる。
事実と金融市場
次に、このような環境下において、株式や債券といった伝統的な資産が思うようにパフォーマンスを発揮しないだろう、という意見の人はいる。
実際、
- S&P500というインデックスは下落した
- Nasdaq100というインデックスは大きく下落した
- Teslaという大きな米国企業は下落した
- バリュー株は下落したが、グロース株も大きく下落した
- 仮想通貨は大幅下落した
- 米国の国債は下落した
- 中国の株式は下落した
大小問わなければ多くの資産が比較的短期間に下落したわけだ。
下落した中でも相対的に良かったものと相対的に悪かったものがあることにも気づく。
個人の投資家は下落をしたらその大小を問わなくなる傾向がある。
原油価格だけが上がっている、なら原油を買おう、だがその次の瞬間には下落しているかもしれない。
私自身、数百年も生きたわけではないので、今後、社会の構造そのものがどのように変わっていくかについて予言ができるような知見を持ち合わせていない。それに、一様に語るには無理があるほど、考慮すべき変数が多い。
しかしながら、不況(リセッション)という景気のサイクルにおいて、金融市場における“勝者”と”敗者”が入れ替わることは過去にならえば素直である。それにリセッションを金融市場が乗り越えるのにそれなりに時間がかかるというのもそうらしい。
株式というのはリスク資産である。低いリターンの可能性があると同時に高いリターンを出すこともある。そういうものなのだ。
このリスクから投資家が自分自身を守る方法は「分散」である。
巨大なクジラと言われる年金基金に運用しないという選択肢はない。彼らがどのようにして身を守っているかというと分散するしかない。
個別に見ても勝者と敗者は入れ替わり、アセットクラスで見ても勝者と敗者はいずれ入れ替わる。いつ入れ替わるかまでは分からない。過去を参照したところでその入れ替わりが全くそのまま再現されるわけではない。
ただ、分散を実現してさえいればどちらに転んでも何も困ることはない。分散とは未知の未来に対するヘッジなのであると考えることができる。
恐らく分散していなかった人は今は沈黙を貫いているに違いない。しばらくじっとしていますと言う。それはとりすぎていたリスクの裏返しである。
同時に、分散していたから絶対に負けない、ということはない。自信の置き方を間違えてはいけない。一つ言えるのは、分散をしていれば資金がまるまる吹っ飛ぶことはない、ということだ。
未来は分からないという事実にも向き合う
投資のリターンの源泉は未来の不確実性そのものにある。誰もが未来に起こることを知っていたら、マネーにリスクはない。だからリターンもない。
この瞬間に投資家が損失を被るのは同時にリターンがそこにあることの裏返しでもある。いつかは反転するが、それがいつかは分からないし、底がどこなのかは分からない。
しばらくの間投資のパフォーマンスが良い状態が続けば次に損失を被ることも想定の範囲内でなければいけない。でもそれはいつか起こる。いつかは反転するが、それがいつかは分からないし、ピークがいつなのかは分からない。
人はそれほど辛抱強くない
認めよう。人間はそんなに辛抱強くなれない。
1ヶ月前の為替水準は意識しても、10年前のことは意識しない。株価が下がった後に、じっとしていればまた上がって来ると言っても信じはしないのである。誰しも客観的に物事を考えられるとは限らないのと同じである。
だから、待つ、ということをやってはいけない。待っていても何も変わらないからである。忘れた頃に金融市場はまた動いている。
人と話したりニュースを見たりすることは大事だが、金融市場のことが気になってたまらない人は向き合い方を変えることが大事である。投資を続けながらも、趣味や仕事、家族など、もっと有意義な時間の使い方があることに気づくべきである。